100年目
2012.05.12 *Sat
ナショナルジオグラフィック
2012年 4月号
もう5月号は出ているが、これは前月の号。
・タイタニック 沈没の真実
今年はタイタニックの沈没事故から100年目にあたるそうで、タイタニックと同じルートを通る追悼ツアーのニュースも目にした。
今号の表紙は海に沈んだタイタニックの船体の写真だが、2つ折りになっているのがなんとも奇妙。
・・・というか初めて見た。
海底のタイタニックの船内の写真とオリンピア号(タイタニック号の同型船)の同じ部分の写真が並べて掲載されているページが印象的。
一方が「死」
一方が「生」
何とも不思議な、というより不気味な感じだ。
ところで、タイタニック号にはただ一人、細野正文、という日本人乗客が乗っていたそうだ。
その人は、元YMOの細野晴臣の祖父との事。
ナショナルジオグラフィックのサイトに細野晴臣氏へのインタビューも載っている。
(本人は祖父が亡くなった後に生まれているので、直接の面識はない)
それによると祖父に対しては「他人を押しのけてまで生きて帰った卑怯者」という中傷があったらしい。
非常時の判断を平常時の状態にいる者がどうこう言う筋合いはないだろう、と思ったが「時代背景」というものもあったようだ。
(幸い、映画「タイタニック」撮影時の調査の際、脱出時の祖父の行動を記録していた資料が見つかり、まったくの言いがかりだった事が証明された)
そう言えば、タイタニック号は当時「絶対、沈まない船」と言われていたそうだが、沈没した。
どこかの国にも「絶対、安全な”アレ”」が事故を起こした。
教訓になってなかったようだ。
・生き続ける仮面の魂
アフリカや黒人奴隷の子孫が住む地域に残る伝統的な仮面舞踏祭のコスチュームの写真を集めた記事。
単純にデザイン自体もユニークだが、仮面を着ける事で、外見も内面も普段と違った存在になる、というのが面白い。
演じているのではなく、「何か」になっているらしい。
日本の祭りでも仮面を着けた踊りを目にすることはあるが、それも「何か」になっているのだろうか。
2012年 4月号
もう5月号は出ているが、これは前月の号。
・タイタニック 沈没の真実
今年はタイタニックの沈没事故から100年目にあたるそうで、タイタニックと同じルートを通る追悼ツアーのニュースも目にした。
今号の表紙は海に沈んだタイタニックの船体の写真だが、2つ折りになっているのがなんとも奇妙。
・・・というか初めて見た。
海底のタイタニックの船内の写真とオリンピア号(タイタニック号の同型船)の同じ部分の写真が並べて掲載されているページが印象的。
一方が「死」
一方が「生」
何とも不思議な、というより不気味な感じだ。
ところで、タイタニック号にはただ一人、細野正文、という日本人乗客が乗っていたそうだ。
その人は、元YMOの細野晴臣の祖父との事。
ナショナルジオグラフィックのサイトに細野晴臣氏へのインタビューも載っている。
(本人は祖父が亡くなった後に生まれているので、直接の面識はない)
それによると祖父に対しては「他人を押しのけてまで生きて帰った卑怯者」という中傷があったらしい。
非常時の判断を平常時の状態にいる者がどうこう言う筋合いはないだろう、と思ったが「時代背景」というものもあったようだ。
(幸い、映画「タイタニック」撮影時の調査の際、脱出時の祖父の行動を記録していた資料が見つかり、まったくの言いがかりだった事が証明された)
そう言えば、タイタニック号は当時「絶対、沈まない船」と言われていたそうだが、沈没した。
どこかの国にも「絶対、安全な”アレ”」が事故を起こした。
教訓になってなかったようだ。
・生き続ける仮面の魂
アフリカや黒人奴隷の子孫が住む地域に残る伝統的な仮面舞踏祭のコスチュームの写真を集めた記事。
単純にデザイン自体もユニークだが、仮面を着ける事で、外見も内面も普段と違った存在になる、というのが面白い。
演じているのではなく、「何か」になっているらしい。
日本の祭りでも仮面を着けた踊りを目にすることはあるが、それも「何か」になっているのだろうか。
既読と未読
2012.05.04 *Fri
読んでいない本について堂々と語る方法
ピエール・バイヤール
大浦康介 訳
筑摩書房
本好きをイラつかせ、本嫌いが手を叩いて喜ぶようなタイトル。
「何を!」という気持ちで、読み進めると、著者の次のような問いにたじろぐ事になる。
「本を読んだ、とはどういう事を指すのか?」
「何度も繰り返し読んだ、という事が”読書”なのか?
ならば、流し読みした本は?、人から話を聞いただけの本(特に古典など)は?」
「何度、読んでも意味を理解していなかったら?
繰り返し読んでも、時間の経過とともに内容を忘れたら、読んでいないのと同じでは?」
著者が言うには「本を読んだ」という定義があいまいな以上、「完璧に読んだ」という状態はありえない。
つまり本について語る時、(”ある意味”という言葉が付くが)誰もが読んでいない本について語っているのだという。
ただ、だからと言って、本書は本嫌いにとっての「福音書」にもなりえない。
なぜなら、読んでいない本について語るにしても、その本や著者が全体(自分の主観ではなく、社会全体の共通認識)の中のどこに位置付けられるか、という知識は必要だから。
本そのものに興味がなければならないのだ。
ズボラな本のタイトルに見えて、
「本を読む事とは?」
「批評する事とは?」
を論じる本となっている。
ちなみに「読んでいない本について堂々と語る方法」自体は、この本の目次を見れば分かってしまう。
(あくまでざっくりとしたものでしかないが)
ただ、それが分かったとして、その方法で誰もがうまくやれるかは、また別な話。
半分ハッタリでごまかせたとしても、それだけでは、ただ口達者な人間。
結局のところ、語るべき事が自分自身の中になければならないのだ。
その「語るべき事」を自分の中に積み重ねていく方法の一つに「読書」(ただ読むだけでなく、自分なりに消化した読書)があるのでは、と思う。
帯には「これでレポートや論文もこわくない」と書かれているが、そんなにウマイ話はない。
(あとがきにもあるが)「本を読まずにすませる本」を「読まずにすませる」人が出てきて、この本の存在自体が危うくなってしまうからだ。
なお、一応、念押ししておくが、この感想は本書を(それも2回)読んでから、書いている。
ピエール・バイヤール
大浦康介 訳
筑摩書房
本好きをイラつかせ、本嫌いが手を叩いて喜ぶようなタイトル。
「何を!」という気持ちで、読み進めると、著者の次のような問いにたじろぐ事になる。
「本を読んだ、とはどういう事を指すのか?」
「何度も繰り返し読んだ、という事が”読書”なのか?
ならば、流し読みした本は?、人から話を聞いただけの本(特に古典など)は?」
「何度、読んでも意味を理解していなかったら?
繰り返し読んでも、時間の経過とともに内容を忘れたら、読んでいないのと同じでは?」
著者が言うには「本を読んだ」という定義があいまいな以上、「完璧に読んだ」という状態はありえない。
つまり本について語る時、(”ある意味”という言葉が付くが)誰もが読んでいない本について語っているのだという。
ただ、だからと言って、本書は本嫌いにとっての「福音書」にもなりえない。
なぜなら、読んでいない本について語るにしても、その本や著者が全体(自分の主観ではなく、社会全体の共通認識)の中のどこに位置付けられるか、という知識は必要だから。
本そのものに興味がなければならないのだ。
ズボラな本のタイトルに見えて、
「本を読む事とは?」
「批評する事とは?」
を論じる本となっている。
ちなみに「読んでいない本について堂々と語る方法」自体は、この本の目次を見れば分かってしまう。
(あくまでざっくりとしたものでしかないが)
ただ、それが分かったとして、その方法で誰もがうまくやれるかは、また別な話。
半分ハッタリでごまかせたとしても、それだけでは、ただ口達者な人間。
結局のところ、語るべき事が自分自身の中になければならないのだ。
その「語るべき事」を自分の中に積み重ねていく方法の一つに「読書」(ただ読むだけでなく、自分なりに消化した読書)があるのでは、と思う。
帯には「これでレポートや論文もこわくない」と書かれているが、そんなにウマイ話はない。
(あとがきにもあるが)「本を読まずにすませる本」を「読まずにすませる」人が出てきて、この本の存在自体が危うくなってしまうからだ。
なお、一応、念押ししておくが、この感想は本書を(それも2回)読んでから、書いている。
隠喩!?
2012.04.30 *Mon
アタゴオル 7
アタゴオル玉手箱篇
ますむら・ひろし
スコラ漫画文庫
この巻の中の「キリエラ戦記」についての感想。
大きな力を持つ「キリエラ」を巡り、ヒデヨシ達と銀波船長率いる海賊たちが繰り広げる戦いが描かれている。
他の一話完結の話と比べると、ブラックな内容。
ダークファンタジーは、結構好きなジャンルなので、「キリエラ戦記」のような話は割りと好み。
これの前に読んだのが、「アタゴオル外伝 ギルドマ」 で、こちらもブラックな内容だったが、ヒデヨシ達と敵対する相手は「人間」ではなかったため、寓話的な色彩が強かった。
が、キリエラ戦記では、敵対するのは銀波船長という「人間」のため、リアルさ、というか生々しさを強く感じてしまう。
特に印象的なのは、「キリエラ」と双璧をなす「網樹(もうじゅ)」に取り込まれた後の銀波船長とテンプラのやりとり。
銀波船長:(大量の土や植物を食い荒らし、独自の生命体を生み出す「網樹」を指して)
「網樹こそ文明そのものなのさ」
テンプラ:「自然を食い荒らす網樹は必ず滅んでしまうぞ」
銀波船長:「この星の自然を食い尽くしても、網樹はそこで滅ぶ程、未熟な文明じゃないんだ。
この星を覆いつくした網樹を母体としながら、新しい生命循環を続けていくのさ」
テンプラ:「自然が消えても生き続けるなんて、まるで死の文明だな」
銀波船長:「そうとも・・・。永遠に続く死の文明なのさ」
最近のニュースなどの影響を受けた上での解釈だが、「網樹」は、どうしても「アレ」の事を連想させる。
「網樹」の動力源(らしい)ものは「熱の光」
この「熱の光」、中身は誰も知らないが、普段は街の動力源として使っているもの。
ご丁寧に、このエネルギーを「兵器」として使えば、一発で山を吹き飛ばしてしまうほどの威力を持っている、という設定。
そして「キリエラ」は、物質を形作る「旋律」を操る能力を持つハーモニカ。
「キリエラ」「網樹」「熱の光」の3つは、同じ文明が作り出したもので、その文明自身は大昔にすでに滅んでいる。
やはり「アレ」の隠喩、としか思えない。
ラストに救いはあるものの、いつになくブラックな内容だった。
(「アタゴオル」を全巻、読んだわけではないが)
アタゴオル玉手箱篇
ますむら・ひろし
スコラ漫画文庫
この巻の中の「キリエラ戦記」についての感想。
大きな力を持つ「キリエラ」を巡り、ヒデヨシ達と銀波船長率いる海賊たちが繰り広げる戦いが描かれている。
他の一話完結の話と比べると、ブラックな内容。
ダークファンタジーは、結構好きなジャンルなので、「キリエラ戦記」のような話は割りと好み。
これの前に読んだのが、「アタゴオル外伝 ギルドマ」 で、こちらもブラックな内容だったが、ヒデヨシ達と敵対する相手は「人間」ではなかったため、寓話的な色彩が強かった。
が、キリエラ戦記では、敵対するのは銀波船長という「人間」のため、リアルさ、というか生々しさを強く感じてしまう。
特に印象的なのは、「キリエラ」と双璧をなす「網樹(もうじゅ)」に取り込まれた後の銀波船長とテンプラのやりとり。
銀波船長:(大量の土や植物を食い荒らし、独自の生命体を生み出す「網樹」を指して)
「網樹こそ文明そのものなのさ」
テンプラ:「自然を食い荒らす網樹は必ず滅んでしまうぞ」
銀波船長:「この星の自然を食い尽くしても、網樹はそこで滅ぶ程、未熟な文明じゃないんだ。
この星を覆いつくした網樹を母体としながら、新しい生命循環を続けていくのさ」
テンプラ:「自然が消えても生き続けるなんて、まるで死の文明だな」
銀波船長:「そうとも・・・。永遠に続く死の文明なのさ」
最近のニュースなどの影響を受けた上での解釈だが、「網樹」は、どうしても「アレ」の事を連想させる。
「網樹」の動力源(らしい)ものは「熱の光」
この「熱の光」、中身は誰も知らないが、普段は街の動力源として使っているもの。
ご丁寧に、このエネルギーを「兵器」として使えば、一発で山を吹き飛ばしてしまうほどの威力を持っている、という設定。
そして「キリエラ」は、物質を形作る「旋律」を操る能力を持つハーモニカ。
「キリエラ」「網樹」「熱の光」の3つは、同じ文明が作り出したもので、その文明自身は大昔にすでに滅んでいる。
やはり「アレ」の隠喩、としか思えない。
ラストに救いはあるものの、いつになくブラックな内容だった。
(「アタゴオル」を全巻、読んだわけではないが)
アレンジ
2012.04.29 *Sun
星を継ぐもの 03
星野之宣
原作:J・P・ホーガン
小学館
J・P・ホーガン原作のSFの古典を星野之宣流にアレンジした「星を継ぐもの」の第3巻。
1,2巻で世界観の説明が行われ、役者が出揃ったので、いよいよ怒涛の展開、となる。
今回の目玉は、人類と巨人達(ガニメアン)とのファーストコンタクト。
人類とガニメアンの友好的な対話を快く思わない者達による破壊活動が大仕掛け。
1巻から登場していた、分かり易い「悪者」の正体も一部判明する。
そして、それら以外にも裏にいる勢力の存在も暗示される。
当初は「星を継ぐもの」のみのマンガ化と思っていたが、2巻で”巨人たち”が登場した事で、
「ガニメデの優しい巨人」「巨人たちの星」も含まれる事が分かる。
そして、この3巻では、原作のアレンジが顕著になる。
・・・というより全く別物のような展開、と言ってもいいくらいだ。
原作の方は記憶を頼りにしているだけなので、記憶違いがあるかもしれない、と心配になってきた。
原作と違う点がある、という事ばかり強調してしまっているが、思い返してみると、こういうものの場合、原作通りという事の方が少ない、という気がする。
それにより、原作ファンは「ここは、そうきたか」という楽しみ方ができるし、原作を知らない人は、”新しい話”として楽しむ事ができる。
何より、マンガそのものが面白くなければ、このような楽しみ方自体できないだろう。
当初、原作を知っているから、という、ある種の「余裕」があったが、それも大して大きいわけではない事が分かってきた。
原作通り、だけだと物足りなさを感じるし、アレンジが大きいとそれはそれで原作ファンの反発を買ってしまう。
そのあたりのさじ加減はどのようにしているのか、一度、聞いてみたい気もする。
次の巻が出るまでに、三部作と「内なる宇宙」を読んでおいた方がいいか、という思いはじめた。
ところで、「チャーリー」の話がどこかにいってしまっているようなのが、少し気になる。
ちゃんと戻ってくるだろうか。
星野之宣
原作:J・P・ホーガン
小学館
J・P・ホーガン原作のSFの古典を星野之宣流にアレンジした「星を継ぐもの」の第3巻。
1,2巻で世界観の説明が行われ、役者が出揃ったので、いよいよ怒涛の展開、となる。
今回の目玉は、人類と巨人達(ガニメアン)とのファーストコンタクト。
人類とガニメアンの友好的な対話を快く思わない者達による破壊活動が大仕掛け。
1巻から登場していた、分かり易い「悪者」の正体も一部判明する。
そして、それら以外にも裏にいる勢力の存在も暗示される。
当初は「星を継ぐもの」のみのマンガ化と思っていたが、2巻で”巨人たち”が登場した事で、
「ガニメデの優しい巨人」「巨人たちの星」も含まれる事が分かる。
そして、この3巻では、原作のアレンジが顕著になる。
・・・というより全く別物のような展開、と言ってもいいくらいだ。
原作の方は記憶を頼りにしているだけなので、記憶違いがあるかもしれない、と心配になってきた。
原作と違う点がある、という事ばかり強調してしまっているが、思い返してみると、こういうものの場合、原作通りという事の方が少ない、という気がする。
それにより、原作ファンは「ここは、そうきたか」という楽しみ方ができるし、原作を知らない人は、”新しい話”として楽しむ事ができる。
何より、マンガそのものが面白くなければ、このような楽しみ方自体できないだろう。
当初、原作を知っているから、という、ある種の「余裕」があったが、それも大して大きいわけではない事が分かってきた。
原作通り、だけだと物足りなさを感じるし、アレンジが大きいとそれはそれで原作ファンの反発を買ってしまう。
そのあたりのさじ加減はどのようにしているのか、一度、聞いてみたい気もする。
次の巻が出るまでに、三部作と「内なる宇宙」を読んでおいた方がいいか、という思いはじめた。
ところで、「チャーリー」の話がどこかにいってしまっているようなのが、少し気になる。
ちゃんと戻ってくるだろうか。
メルヘンの真相!?
2012.04.14 *Sat
メルヘンの深層
森義信
講談社現代新書
「シンデレラ」
「白雪姫」
「赤ずきん」
「ジャックと豆の木」
「ヘンゼルとグレーテル」
など誰もが知るメルヘンの話から歴史情報を取り出して舞台背景となっている時代を垣間見る史料としようとするもの。
精神分析の分野からメルヘンを解釈する、という話は聞いた事があるが、これは歴史の分野からメルヘンを解釈しようとしている。
物語の中に出てくる悪者に対する刑罰は「魔女裁判」で使われたとされる刑罰にそのものだったり、飢饉の際の「子捨て(口減らし)」を思わせる内容があったり、ユダヤ人差別が見え隠れするものがあったり、とメルヘンと言えど、その時代の世相を反映しているものが多い。
が、精神分析の分野からの解釈よりは、関連が直接的で分かりやすい感じがする。
(「白雪姫」に出てくる毒リンゴは「○○○」の象徴で・・・と言われても、それが正しいか正しくないか、判断がつかない)
ただ、個々の小道具が現す意味の解釈については理解できるが、著者による物語全体の新解釈には釈然としないものもいくつかある。
(あくまで個人の主観的な感想として)
メルヘンも最初から今の状態でずっと伝わっていたわけではなく、原型となる話があり、それにいろいろ付加され、時代の影響を受け、物語自体も変容しているので、いろいろな時代のものがゴッチャになった状態のものを解釈しようとしてもムリが出てきてしまうのではないか、と思ってしまった。
が、メルヘンの解釈としてこういうことも考えられる、というレベルにおいては楽しめる内容になっている。
「さるかに合戦」は勧善懲悪の物語か、過剰な復讐の物語か、「桃太郎」は英雄の物語か、大義なき侵略の物語か、と考えるだけで面白い。
これと同じ意味では著者によるメルヘンの解釈も楽しめるものになっている。
森義信
講談社現代新書
「シンデレラ」
「白雪姫」
「赤ずきん」
「ジャックと豆の木」
「ヘンゼルとグレーテル」
など誰もが知るメルヘンの話から歴史情報を取り出して舞台背景となっている時代を垣間見る史料としようとするもの。
精神分析の分野からメルヘンを解釈する、という話は聞いた事があるが、これは歴史の分野からメルヘンを解釈しようとしている。
物語の中に出てくる悪者に対する刑罰は「魔女裁判」で使われたとされる刑罰にそのものだったり、飢饉の際の「子捨て(口減らし)」を思わせる内容があったり、ユダヤ人差別が見え隠れするものがあったり、とメルヘンと言えど、その時代の世相を反映しているものが多い。
が、精神分析の分野からの解釈よりは、関連が直接的で分かりやすい感じがする。
(「白雪姫」に出てくる毒リンゴは「○○○」の象徴で・・・と言われても、それが正しいか正しくないか、判断がつかない)
ただ、個々の小道具が現す意味の解釈については理解できるが、著者による物語全体の新解釈には釈然としないものもいくつかある。
(あくまで個人の主観的な感想として)
メルヘンも最初から今の状態でずっと伝わっていたわけではなく、原型となる話があり、それにいろいろ付加され、時代の影響を受け、物語自体も変容しているので、いろいろな時代のものがゴッチャになった状態のものを解釈しようとしてもムリが出てきてしまうのではないか、と思ってしまった。
が、メルヘンの解釈としてこういうことも考えられる、というレベルにおいては楽しめる内容になっている。
「さるかに合戦」は勧善懲悪の物語か、過剰な復讐の物語か、「桃太郎」は英雄の物語か、大義なき侵略の物語か、と考えるだけで面白い。
これと同じ意味では著者によるメルヘンの解釈も楽しめるものになっている。


