小人閑居

「ベストセラー」より「知る人ぞ知る」といった本を紹介していきたいと思います。

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妖怪変化のいる日常

家守綺譚
 梨木香歩
  新潮文庫


駆け出しの作家、綿貫征四郎は、死んだ友人の父親から、
「嫁に行った娘の近くに隠居するが、この家は残したい。ついては、家の守をしてくれないか。
 その代わり、わずかではあるが月々のものも渡す。」
という依頼を受ける。

作家としての仕事は、時々ある、という状態。
とてもそれだけでは食っていけなかったので、綿貫にとっては願ってもない話。
とんとん拍子に話は進み、家守兼作家(いや作家兼家守だろうか)になるのだった。

ところが、この土地のせいなのか、家のせいなのか、はたまた綿貫自身のせいなのか、奇妙な来客、出来事が続く・・・。

死んだ友人の高堂の来訪をはじめとし、河童とサギのケンカを仲裁して名を上げた犬ゴロー、綿貫に恋する庭のサルスベリ、河童に人魚。
狸は人を化かし、ハクモクレンは雷でタツノオトシゴを孕む。

ただし、おどろおどろしい話や謎解きをする話ではなく、すべては「日常の風景」の一つ、「季節の風物詩」として描かれる。

「友人が久しぶりにやってきた」
「道でネコを見かけた」
「春、サクラが咲いた」
というのと同じレベルなのだ。

高堂が初めて現れた時の会話など
「どうした高堂。逝ってしまったのではなかったのか。」
「なに、雨に紛れて漕いできたのだ。」(高堂は大学時代、ボート部に所属していて、ボートの練習中に行方不明になっている)
という調子。
まるで、死んだ事など無かったかのよう。

その後も、度々、高堂はやってくるが、昔(明治時代?)の学生が友人の下宿に勝手に上がりこむようなノリでやってくる。

隣家のおかみさんは、おかみさんで
「鬼の子を見た」
と綿貫が言えば、
「啓蟄(*1)ですから」
と返す。
*1 二十四節気のひとつ。大地が温まり冬眠をしていた虫が穴から出てくるころ。

鬼が虫扱いというのは、どこかユーモアさえ感じる。
ただ「蟲」という字の方であれば、生物全般を指す意味で使われる事もあるので、なるほど、とも思える。
(それでも「妖怪」ではなく「生物」扱いになるが)

河童、人魚、鬼、というとすぐ「異界の住人」「空想上の存在」を連想してしまうが、本書の中では、全て「自然の一部」。
人間と河童、人魚、鬼などの住む世界の境界が明確ではない、というか連続的に繋がっているのだ。

綿貫も最初は戸惑うような事もあったが、周囲の人々があまりに普通の事として受け入れているので次第に馴染んでいく。
本書の中で綿貫自身も言っていたが、人はどこまで不思議な事を受け入れる事ができるのだろうか。

単なる無いものねだりなのかもしれないが、時折、河童や人魚や鬼の子が、日常の中に現れる暮らしの方が豊かに思えてしまう。
こういった者たちを排除した世界は少々、味気ないような・・・。
それとも、河童や人魚や鬼の子などは違う衣装を纏って、何食わぬ顔で、以前と変わらず歩き回っているのだろうか。
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理解はできないが、受け容れる

春になったら莓を摘みに
 梨木香歩
  新潮文庫


著者が学生時代、英国で過ごした頃、下宿した家の女主人ウェスト夫人と、そこに下宿した人々との交流記。

ウェスト夫人は全くのボランティアで下宿人を受け入れている。
様々な人種、考え方の下宿人たち。

本書で登場する人達は、クセの強い人たちばかりだが、取り上げたのがそんな人達だけなのか、本当にそんな人達ばかりなのかは不明。

「筋金入りの博愛精神」とでも言うべきだろうか。「使命感」のようなものさえ感じる。
下宿人のために嫌な思いをしても、決してボランティアは止めようとしない。
例え小切手の不正使用未遂事件を起こした住人(の知り合い)がいたとしても。

本書の裏表紙にもあるが「理解はできないが、受け容れる」というのがウェスト夫人の生き方。
見習うべき、とは思うが、自分なら嫌な事が2つ、3つあれば、もうコリゴリと思ってしまうのが関の山だろう。

この考え方を貫ける方が理解できない、とさえ思ってしまった。

ところで、今の日本では「理解できないものは、排除する」という風潮が強い気がする。
昔からそうだったかもしれないが、少なくとも「排除」しようとする人の声が簡単に拡散するようになってしまった。
(逆の事も言えるが・・・)

「受け容れる」というレベルは遥か彼方だが、少なくとも積極的に「排除しない」ようにしたい。
「八つ当たり」まがいの行為では、そこで思考停止してしまい、どツボに嵌っていくだけで、何も解決しないから。

名は体を表す

鳥と雲と薬草袋
 梨木香歩
  新潮社


著者が訪れた事のある土地の名前をテーマにしたエッセイ。

薬草袋、というのは著者が旅行の時に持ち歩く常備薬やら、乾燥したブーケなどを入れたごちゃごちゃ袋のこと。
この袋のように、土地の名前に関する事をいろいろと書いたもの、という意味で本書のタイトルに使っているらしい。

ちなみに鳥の話は少なく、雲の話はほとんどない。

地名の由来や地名から受けるイメージをとりとめもなく書いている、という感じを受ける。

元々、西日本新聞で連載されていたものなので、九州の地名が一番多く、次いで西日本の地名が多い。
関東、東北、北海道の地名は数えるほど。

まなざしからついた地名
文字によりかからない地名
消えた地名
新しく生まれた地名
温かな地名
鳥のもつ名まえ
 :
などテーマごとに5,6個ほどの地名の話が展開される。

本書の中で著者が
「地名は住んでいる場所を示す記号以上のもの」
と言っているのは、正にその通り、と思う。

地名は所在地を示すだけでなく、その土地の特徴、成り立ちや歴史をよく現している。
特に古くからある地名ほど、その傾向が強い気がする。

わずか数文字の中に、それだけのものを内包しているのは、人が積み上げた知恵だろうか。

それに対して「新しく生まれた地名」の章で出てくる新しい地名(特に平成の大合併の掛け声の下に生まれた地名)は、記号的というか味も素っ気もないものが多い。
(それを言ってしまえば、自分が今、住んでいる所も「味も素っ気もない」地名になってしまっているが・・・。)

地名としては、目新しい印象を受けるが、それで終わり、というもの。

奥行きも何もあったものではない。
こういう地名には閉口してしまう。
新しい地名は、こんな地名ばかりではない事を祈る。

そういう地名の所に住んでいる人は、どう感じているのだろうか。

ちなみに自分は住んでいる所の話をする場合は、昔からの地名の方を言う事が多い。
「愛着」以外に、サッカーのJリーグのチーム名に付いているので、ピンとくる人が多いのと、新しい地名では指し示す範囲が広すぎて、逆に分かり難くなるから、という理由もあるが・・・。

ところで、この本で出てきた地名の中で一番ツボに入ったのは「小雀」という地名だった。
「横浜市戸塚区小雀町」

これだけでも人を笑顔にするような地名だが、
「小雀乗合バス」「小雀公園」
というのは、面白い情景が思い浮かぶ名前。

さらに
「小雀小学校」
まであるらしい。
これこそ「スズメの学校」か。

WATARIDORI

渡りの足跡
 梨木香歩


渡り鳥をテーマにしたエッセイ。
北からやってくる冬鳥を訪ねる旅行記でもある。

各章の最後にその章で登場した鳥の説明が載っているが、名前から姿が思い浮かばないと十分に楽しめない部分も一部あるので、図鑑があればそれで、なければネットで鳥の姿を確認しながら読んだ方がいいかもしれない。

例えば、ツメメドリとエトピリカを紹介している部分。
ツノメドリ:
「どうにもこうにも困り果てた、というようなその表情」
「ただひたすら困惑している。まいった、という風によめる」

エトピリカ:
「はっきり迷惑しています、と断言しているようである。だが、積極的に怒っている、というほどではない。」
「こちらでできることがあるなら何かいたしますが、と思わず手を差し伸べたくなるような」

表現だけでも面白いが、写真で姿を確認すると、笑い出してしまいそうになるくらい、この通りだった。

本書は渡り鳥の話が中心であるが、渡り鳥が縁で知り合った人の話もいくつか登場する。
その人との触れ合いを単純に楽しめるものもあるし、重い話も。
このあたり一筋縄ではいかなかった。

話は変わるが、本書を読んでいて、2001年のフランスのドキュメンタリー映画「WATARIDORI」を思い出した。
その中で空を飛んでいる鳥たちは、
「優雅に飛んでいる」
というより
「羽ばたいていないと落ちてしまう」
という感じで飛んでいた。

読んでいる時は、そんな鳥たちの姿が思い浮かんだ。
もう一度、「WATARIDORI」を見てみよう、と思う。

ところで、毎年、渡り鳥を見る度に思うことがある。

白鳥などの大型の鳥ならまだしも、ツグミやツバメのように比較的小さな鳥は、一体、どこに長距離を移動する力を持っているのだろう?
休みなしで一気に飛んでくる訳ではないにせよ、あんな体のどこにそんな力が?
それに、渡りを始める時と、帰る時は何がきっかけになるのだろう?
「ここが目的地」というのは、明確に認識しているのだろうか?

一度でいいから聞いてみたい。

この本の紹介文には
「この鳥たちが話してくれたら、それはきっと人間に負けないくらいの冒険譚になるに違いない」
とあるが、「人間に負けないくらい」どころの話ではないだろう。

今の時期、冬鳥の大半は北へ帰っている。
のんびり組のコガモなら、まだ日本にいるだろう。そして、もう少ししたら、今度はツバメがやってくる。

彼らを見かけたら、肩でも揉んであげようか。



異界の歩き方

f植物園の巣穴
 梨木香歩
  朝日文庫


身辺がバタバタと忙しい事を言い訳に歯の痛みをほったらかしにしたまま、新しい任地、f植物園に赴任した主人公。
その任地で歯医者に行くが、どうもその歯医者が少しおかしい。

そもそも自分以外患者がいない。
また、助手も兼ねている歯科医の妻は、前世がイヌだったため、忙しくて、なりふり構っていられなくなるとイヌの姿になってしまうという。
その事を「髪が乱れてる」くらいの感覚で受け止めているし、他人にもそのような感じで説明する。

さらに、下宿先の大家は時折、頭だけ雌鶏になる。

時間の進み方もなにかおかしい。

いつもと同じ日常のようで、どこか違う世界。
記憶を辿ってみると、巣穴に落ちた以降の記憶が途切れ途切れで、しかも巣穴から出た記憶がない。

出た記憶がない以上、まだ自分は巣穴の中にいるはず。それなのに日常のような世界にいる、という事は、ここは異界。
ここを出るにはどうしたらよいのか。そのためにさまよい歩く。

読み進むうちに主人公がさまよい歩く「異界」は、主人公の「記憶」の中だという事が分かってくる。
出てくるものは主人公の記憶の中の何かを象徴するものだが、分かりやすいものもあれば、一体、何の関係があるのか、よく分からないものも出てくる。
よく分からないからこそ、記憶の中の世界なのかもしれない。

最初は、わけも分からずさまようが、次第に、この「異界」で「探すべきもの」が見えてくる。
ただし、いずれも現実の世界では会う事ができなくなった者たち。つまり死者。

彼ら、彼女らとキチンと向き合うために記憶の中の世界をさまようことになったのか、と思うが、そもそもその記憶を抑え込んでしまった理由が今ひとつ分からない。
想像すれば、さもありなん、という気もするが、果たして、そこまで記憶を改変してしまうものか、という点が腑に落ちない。

ただ、そのために読むのが進まない、といった事もない。
手に汗握る展開はなく、どちらかというと緩やかに物語が進むのが自分のペースに合っている感じがする。

ところで、自分の記憶の中の世界をさまよう事になったら、どんなモノが登場するだろう。
本当は、あまり見たくないのだが、少しだけ興味がある。

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