小人閑居

「ベストセラー」より「知る人ぞ知る」といった本を紹介していきたいと思います。

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"いき"だねぇ

まんがで読破 「いき」の構造
   九鬼周造・作
    イースト・プレス


「"いき"だねぇ」とは普段の会話では出てこない。
江戸っ子(の職人)を褒める表現として、使う時があるくらいだろうか。
この"いき"は「オシャレ(洗練されている)」「カッコいい」という意味だと解釈していた。

Wikipedia で「いき」を調べてみると、
「身なりや振る舞いが洗練されていて、格好よいと感じられること。
 また、人情に通じていること、遊び方を知っていることなどの意味も含む。」
とある。

また、「いき」は「粋」と書いて、「いき」と読むものだと思っていたが、「粋」は「すい」と読み、「いき」とは違うらしい。
(同一とする説もある)

意味が半分も分かっていなかった・・・。

「いき」の構造の著者、九鬼周造によると、「いき」とは外国には見られない日本特有の感覚だという。
フランス語の「coquetterie(コケットリー)」「esprit (エスプリ)」等が似ている概念らしいが、どう違うかは分からない。
(少なくとも本書には、その説明はない)

九鬼周造による「いき」の定義は
「運命によって"諦め"を得た"媚態"が"意気地"の自由に生きるのである」
となる。

ますます分からない・・・。

ここで言う「諦め」「媚態」「意気地」は、次のような意味で使っている。
諦め :垢抜けして、あっさりしている様。「ギブアップ」ではなく、仏教の「無常」に近いもの。
媚態 :異性と自分の間における緊張状態。要するに、お互いを意識して、ムラムラしている状態らしい。
意気地:自己に対する制約。Wikipedia によると、「やせ我慢」と「反骨精神」だとか。

前よりは分かったような感じがするが、まだピンとこない。

さらに、言い換えて説明が続く。
「恋の束縛を超越した浮気心。
女遊びにうつつを抜かしていては身を滅ぼすため、適度な距離を保って楽しむ」
という事らしい。

もっと一般化すると
「相反するもの同士が交わる前に、あえて距離を置く潔さ」
となるそうだ。

「興味津々だが、どっぷり漬かる事はせず、あえて距離を置いて楽しむ」
という事と解釈した。

「諦め」「媚態」は町人的な文化から、「意気地」は武士的な文化からきた美意識なのだろうか。

が、本書の「"いき"の外延的構造」の章で
「いきの本質は様々な経験をふまないと見出せない美学」
と書かれていた。

「意気」と「野暮」
「渋み」と「甘み」
「上品」と「下品」
「派手」と「地味」
の関係性を表した図
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005036.html
もあるが、結局、それぞれの概念の関係性は分かったが、この図をどのように活用すれば、「いき」が理解できるのかは分からなかった。
「いき」が見出せなかったのは、自分の修行不足で「様々な経験」を踏んでいないだけなのだろうか。
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楽しいから笑うのか、笑うから楽しいのか?

まんがで読破
 ダ・ヴィンチの手記
  イースト・プレス


「万能の天才」と呼ばれたレオナルド・ダ・ヴィンチ。
そのダ・ヴィンチが遺した手記をマンガ化したもの。

「まんがで読破」シリーズの他のマンガにも言えるが、ページ数などの関係で落とした部分は、どういった点か、アレンジが入っている部分はどこか、という点について、あとがきなどで触れていて欲しい。
手軽に読めるのはいいのだが、アレンジが入った状態が正しい、と勘違いしてしまう。

「ダ・ヴィンチの手記」は岩波文庫からも出版されているが、こちらは未読。
岩波文庫の方の説明を見ると、「絵画論」「人生論」「文学論」「技術論」などがあるが、本書では、主に「絵画論」が取り上げられている。

自分では絵(イラストも含めて)は描かないので、知らなかったが、絵画であっても科学の素養が求められるというのは、少し意外だった。
観察力はもちろん、人であれば筋肉の付き方、遠近法の使い方、光があたる角度など。
弟子のサライに語る、という形で、「講義」が行われる。
(絵を描いている人には、何を今更、という話かもしれないが・・・)

ただ、これらは効果的に描くテクニックに過ぎない。

印象に残るのは
「頬が上がっているから笑って見えるんじゃなく、笑うから頬が上がるんだ。
 表現すべきなのは肉体の動きより、魂の動きだ。」
というセリフ。

なんとなく、というレベルでは分かるが、実践してみろ、と言われたら、どうすればいいのか分からない。

「人の感情や思考が体にどう表れるのか、それを知るための洞察力を養うことだな」
との事だが、さらに答えが遠くなったような気がする。

凡人はここまでか・・・。

ところで、中世の人の言葉なのに、未だに輝きを失わない、となると他の部分は、どうなっているのだろう、とやはり原典の方が気になってしまう。

同音異曲

まんがで読破
 遠野物語
  イースト・プレス
  原作:柳田国男


タイトルは「遠野物語」だが、タイトルが同一な別の話。

都会の生活しか知らない学生が、いきなり自給自足の生活に放り込まれて、電気に頼らない暮らしぶり、昔からの生活の知恵を見直していく、という話。
日本テレビ「鉄腕DASH」のDASH村での生活体験記、と言うとイメージしやすいと思う。

ちょっとした味付けとして、主人公の将来に対する不安感が吐露されていたりする。
(その"不安感"自体は、ありがちなものではあるが・・・)

ちなみに登場する妖怪は数えるほど。
「遠野物語」が、そのままマンガ化された、と期待する人にはガッカリな内容かもしれない。


主人公は大学院で民俗学を学ぶ学生、柳瀬孝之。

教授と、同じ研究室で学ぶ学生達と一緒に研究のために遠野を訪れる。
そして、調査の一環で、町の人に連れられて、かつて霊媒師が住んでいた、という小屋へ。

が、仲間達から少し離れた時、天狗と遭遇。
天狗は柳瀬を吹き飛ばし、17キロほど離れた山の中へ飛ばしてしまう。
(天狗に、どんな意図があったかは最後まで不明。
もしかしたら「ちょっと意地悪」くらいの気持ちだったのかもしれない)

飛ばされた柳瀬を助けたのは、佐々木国士という初老の男。
周囲10キロ以内には人が住んでいない山奥に一人暮らし、という世捨て人、というか変わり者。

柳瀬のケガは足の捻挫だけだが、山奥なので、定期便のバスが近くまで来るのを待った方がいい、というのが佐々木の意見。
が、次の定期便は5日後。

最初は電気の無い生活に戸惑う柳瀬だったが、次第に、その暮らしぶりの良さを見直していくことになる。


佐々木にとって、妖怪は「恐怖」の対象ではなく「自然」の一部。

恵みを与えてくれる事もあれば、牙を剥く事もある。
油断すれば情け容赦なく、つけ込んでくるが、そうでなければ大人しい。

その存在自体は異常なものではなく、ごく普通にあるもの。
都会の人間にとってのカラス、という例えが一番近い、と思う。

柳瀬が、自分が出会った妖怪の話をしても、よくある事のように受け入れる。
あまりに普通に受け入れるので、佐々木自身が異界の住人のようにも思えるほど。
(佐々木が人間ではないのでは、と匂わされるが、その正体は不明確なまま。)

ただ、
「人の恐怖ってのはなぁ、
 たいていは知らないもんに向かうんだよ」
という佐々木の言葉は「異界の住人」というには、あまりに人間的すぎる印象を受ける。

仮に佐々木が「異界の住人」だったとしても、見方を変えると、佐々木にとって、柳瀬こそが「異界の住人」とも言える。
「街の人間」柳瀬と「世捨て人」佐々木、という関係だったとしても、お互い「異界の住人」ではあるが・・・。

知らないものを怖がるのは仕方ないが、それを乗り越える努力はしていたい。

ところで、この「まんがで読破」シリーズは読むとかえって、原典が気になってしまうものが多いので「キケン」なのだが、本書もそのパターンであった。
(これまで読んだ「まんがで読破」シリーズのものとは少々、意味が異なるが・・・)

巡る、巡るよ、時代は巡る

まんがで読破 シリーズ
 「五輪書」 宮本武蔵
 「武士道」 新渡戸稲造
   イーストプレス


いずれも原書ではなく、「まんがで読破」シリーズのマンガである。

この2つを同時に買ったのは全くの偶然だった。
だが、この2つを江戸時代の始まりと終わりの頃に書かれた「武士の
思想についての本」として読み比べると考え方の違いが見えてくるか、
と思い、読み比べてみた。

「五輪書」を今で言う自己啓発本とするならば、「武士道」は倫理・
道徳についての本である。それを同列に論じるのは無理がある、という
ツッコミは、この際、無視する。


「五輪書」の内容を乱暴に一言でまとめてしまうと、

「打ち勝ち、成功を得るための心得集」


であり、一方「武士道」の方は

「武士として生きるための心構え集」

である。


「五輪書」は戦って勝つ事に重点が置かれ、「武士道」は、戦わずして
勝つ事の方がよい、としている。
全体としても前者は、理論+実践(どちらかというと実践を奨励)に
対して、後者は、どうにも理屈が先にくるような印象を受ける。

著者の気質の違い、書かれた時代背景の違いなどはあるにせよ、自身が
実戦をくぐり抜けてきた者と戦いの方法よりは、知恵の方がものを言う
時代に生きた者の違いなのだろう。

無論、どちらが良くて、どちらが悪い、という話ではない。あくまで、
時代によって、考え方がどのように変わったのか比べてみた、という
だけである。

恐いけれど・・・、恐くない!

「まんがで読破 白鯨」  原作 メルヴィル
    イースト・プレス   

タイトルだけなら一度は聞いた事があるであろう本。

すぐに読めそうなので、手に取ってみた。
このシリーズは、「葉隠」「ユリシーズ」「水滸伝」
などの古典から「蟹工船」「罪と罰」「人間失格」
などの近現代の作品まで様々。
「わが闘争」なんてあるが、いいのだろうか・・・。

「白鯨」と「ツァラトゥストラはかく語りき」だけ
読んだが、(どちらも元の方を読んだわけではないが)
短時間で一気に読めるので、入門編としては、手頃
だと思う。

ただ、原作の内容をどの程度まで伝えているかが気に
なってしまう。
(そういう人は改めて原作を読め、というだけの事
 だが…)


新米捕鯨船員である主人公のイシュメルが乗った船は、
かつて白鯨に片足を奪われた事がきっかけで、復讐に
燃えるエイハブ船長の船だった。

少々、偏屈なだけだと思っていたエイハブ船長だが、
次第に白鯨に対する異常な執着心が明らかになってくる。

出航後、初めての漁の後、船員達にねぎらいの言葉
一つかけることもしない。
船員の一人が事故で死亡しても、あまり気にしない。

それどころか、銛打ちを集めて、白鯨への呪いの儀式
めいたことさえやり始める始末・・・。

そして、白鯨にやられた、という船と出会った時、
行方不明の船員を一緒に探して欲しい、という依頼を
断り、白鯨との対決を優先させてしまう。


おそらく、船長のこの執着心は「白鯨への恐怖」から
きているのだろう。

船長の腹心の部下であるスターバックはイシュメルに
「恐怖を知らぬ者は、ただの愚か者だ。恐怖を知るから
 克服できるのだ。恐怖から目をそらすな」
と語る。

エイハブ船長もこんな事は、百も承知で、実際に
たくさんの恐怖を克服してきたに違いない。
だが、「白鯨」という、これまでとは比べものに
ならないくらい巨大な恐怖と対峙した時、目をそらして
しまったのだろう。

ベテランの船乗りとしての本能がそれにやましさを感じ、
プライドが自分自身にその事を認めるのをジャマした結果、
「恐怖」の元凶である白鯨を葬り去ることにより帳消しに
しようと考えたのだろう。

イシュメルの場合は、新米ということもあり、「恐いか?」
と聞かれたら、迷わず「恐い」と言うことができた。

エイハブ船長も「恐い」と言える相手がいたら、または
自分が「恐怖」を感じ、目をそらした事を認める事が
できていたら、違う結末になっていたと思う。

何気なく、手に取ったマンガだが、小説の方が気に
なってきた。

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