小人閑居

「ベストセラー」より「知る人ぞ知る」といった本を紹介していきたいと思います。

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ほんとうの幸い

「銀河鉄道の夜」
 ますむら・ひろし賢治シリーズ Vol.1

     原作:宮沢賢治
     作画:ますむら・ひろし

宮沢賢治の有名な童話。
ただし、読んだのは、ますむら・ひろしによる登場人物がネコになっているマンガ版。

作者のあとがきからの受け売りだが、主人公のジョバンニが銀河鉄道に乗る時期は、ちょうどお盆の頃。
(物語の中で出てくる「三角標」は、ヴェガ、アルタイル、デネブの”夏の大三角形”の事で、ジョバンニが銀河鉄道に乗る時刻は作中から20時頃。ヴェガがその時刻、天頂付近に来るのは、お盆の頃、ということらしい)

だから銀河鉄道には生者も死者も乗っているのだ。

今年は、地震により多くの人がこの銀河鉄道に乗る事になってしまった。(奇しくも宮沢賢治は岩手の人)
また、個人的にも(地震とは関係ないが)今年、祖母が亡くなり、銀河鉄道の客となった。

ところで、このマンガ版では、2つの「銀河鉄道の夜」が収録されている。
一つは、普通に手にすることができる版で、もうひとつは”初期型”と呼ばれる”ブルカニロ博士”という人物が出てくる版である。

主人公ジョバンニは、カンパネルラと「ほんとうの幸い」について話し合うが、結局、それが何なのかは分からない。
が、探し続ける事を誓う。

この後、カンパネルラは姿を消してしまうが、”初期型”では、ブルカニロ博士という人物が登場し、
「あらゆるひとのいちばんの幸福を探し、みんなと一緒に早くそこに行くがいい。
 そこでおまえは本当にカンパネルラといつまでも一緒に行けるのだ」
とジョバンニに言う。

宮沢賢治の考えをブルカニロ博士という人物に代弁させているかのようだ。
賢治の死生観が窺いしれるが、その考え方は、多くの人とそんなにかけ離れているものではないだろう。

人の生死について考えるには、いい題材になる作品だと思う。
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世のため、人のため

「グスコーブドリの伝記」
 ますむら・ひろし  原作:宮沢賢治
     扶桑社文庫


宮沢賢治の作品をますむら・ひろしがキャラクターをネコに置き換え、
マンガ化したものの第三弾。
「グスコーブドリの伝記」の他に「猫の事務所」「どんぐりと山猫」が
収録されている。


「グスコーブドリの伝記」
主人公のブドリは飢饉で孤児となり、その後、苦労して都会の大学で
勉強し、火山局で働くことになる。

ある時、大飢饉の兆候が見られ、ブドリは火山を爆発させて、大気中
の二酸化炭素の量を増やし、気温を上げ、大飢饉を回避するという方法
を提案する。
ただ、その方法は火山を爆発させる役目の者が犠牲になる方法だった。
ブドリは自らその役目を買ってでて、大飢饉は回避された、という話。

宮沢賢治は質屋の子供であったため、凶作で生活が困窮した農民達が
家財道具などを売りにきた姿を目にした影響はあると思う。

火山をわざと爆発させて・・・という件は、今の感覚では、ちょっと
首をひねるものがあるが、人々のために犠牲になるという姿は
「銀河鉄道の夜」のジョバンニの

”みんなの本当のさいわいを探しに行く”

というセリフにも通じるものがある。

ただ自分が犠牲になる、という選択だけはしてほしくなかった。
逆に言えば、それだけ飢饉で苦しむ人々を何とかしたい、と考えていた
ということだろうか。


「猫の事務所」
猫の歴史と地理を調べる事務所で働いている、かま猫。
彼は、ささいな事から同僚からいじめられるようになってしまう。

同僚の猫がかま猫をいじめるようになった理由は、どうでもいいような
事である。(というより、言いがかり、と言った方がよい)

猫のやることだから・・・と思うが、よく考えると、この事務所で
働く猫達は、猫界のエリートである。

そんなエリート猫が、こんなくだらない理由で、という気がするが、
これは宮沢賢治の風刺である。

この話では、最後に事実を知ったライオン(上司)が怒って、
事務所を閉鎖するが、人間社会で同じような事がどれだけ行われて
いることか・・・


「どんぐりと山猫」
ある日、一郎は不思議なハガキを受け取る。
”明日、面倒な裁判をするので、来てほしい---山ネコ”

言われるままに行ってみると、そこでは山ネコ裁判官が、ドングリ達
の訴えに頭を悩ましていた。
もう三日も裁判をしているのだが、何かいい知恵を貸して欲しい、と
いうのだ。

一郎が山ネコの所に行く時に道を聞く相手がヴァリエーションに
富んでいる。

栗の木、滝、きのこにリス。

動物ならまだ分かるが、木や滝やきのこと会話する、という発想が
面白い。

ちなみに裁判を解決させた報酬は、金のドングリ。
「裁判所」は、どうやら一種の異世界だったようで、そこを離れる
ほどに色褪せていき、一郎の家に着いた頃には、普通のドングリと
変わらないものになっている。
(一郎は、別に騙されたとも思っていないが)

山ネコと別れ際に、今後、何かやっかいな裁判があったら、また
手紙を送る、と言われるが、結局、手紙は来ない。
山ネコの裁判所では、この時代から「裁判員制度」をやっていて、
いろいろな人を抽選で選んでいたからだろうか。

風と共に去りぬ

「風の又三郎」
  ますむら・ひろし  原作:宮沢賢治 
    扶桑社文庫


宮沢賢治の作品をますむら・ひろしがキャラクターをネコに置き換え、
マンガ化したもの。
「風の又三郎」の他に「雪渡り」「十力の金剛石」が収録されている。

「風の又三郎」
二学期の始まりと共に東北の小さな小学校にやってきた転校生「高田三郎」

北海道から転校してきて、東北の訛りが分からない、という事もあって、
最初のうち、周りの子供達に不思議な印象を与えていた。
この辺りは転校生がクラスに来た事のある人なら誰でも同じような感じを
受けた思い出があるだろう。

まもなく、三郎は学校になじむが、彼がやって来る時と去る時には(必ず
ではないが)風が吹くので、友達は親しみもこめて「風の又三郎」と呼ぶ
ようになった。

又三郎と友達が遊ぶ姿は同じ事をしたわけではないが、懐かしさを覚える。
些細なイタズラがちょっとした騒ぎになったり、知らない大人が遊び場の
近くに来たら、意味も無くドキドキしたり・・・

又三郎と耕助の口ゲンカで、又三郎が「風が無くてもいい理由を挙げてみな」
と言って、耕助がムキになって理由を挙げるあたりなど、後から考えれば
どうでもいい理由で口ゲンカしたことなどを思い出してしまう。

読みながら、映画の「スタンド・バイ・ミー」を連想してしまった。
いや、「風の又三郎」の方が先なので、「スタンド・バイ・ミー」を
ハリウッド版「風の又三郎」と言うべきだろう。


「雪渡り」
幼い兄妹がキツネの幻燈会に招待される話。

キツネは人をだます、と言われている。
この兄妹は、当然、そんな話も聞いているが、幻燈会でキツネが出して
くれたダンゴを食べる。
キツネ達は、自分達を信じてくれた兄妹の行動に感激して、歓待する。

話の中では、人間とキツネがお互いが決まった歌を歌うと、普通に会話
できるようになる。
この歌が魔法の呪文になっているのだろう、とあまり本筋に関係ない所に
興味が行ってしまった。


「十力の金剛石」
いつの時代ともはっきりしない、とある国の王子と付き人が虹の脚もとに
あるという「ルビーの絵の具皿」をもとめて、森へ入る。
「ルビーの絵の具皿」は見つからないが、それより美しいと言われる十力
の金剛石を探しに、さらに森の奥へ進む・・・といった話。

こちらは寓話的。
ただ、美しいもの、珍しいものを求めて、遠くへ行くより、身の回りに
そういったものがないか探してみるのも面白いのではないか、という
思いになった。

ほんとうのさいわい

銀河鉄道の夜
 ますむら・ひろし  原作:宮沢賢治
   扶桑社文庫


あまりに有名な話であるため、ここではあらすじを紹介
するまでもないだろう。

あとがきに書いてあるが、この話に出てくる星座が天頂
付近にくる時間が20時前後(時刻は物語中に出てくる)
の時期は、ちょうどお盆の時期になるらしい。

お盆の時期は、先祖の霊を自宅に迎え入れる。
つまり生者と死者が交流できる時期である。
だから銀河鉄道には死者と生者が乗っているのだ。

・・・と、これは、あとがきからの受け売り。

この本の特徴的な所は、「初期形」の話も掲載されて
いる点だ。
大きな違いは、最後の方にカムパネルラが突然、姿を
消した後に「ブルカニロ博士」という人物が登場し、
ジョバンニと話をするシーンがある。

ちなみにこちらのバージョンでは、カムパネルラは
ジョバンニの親友というわけではなく、お金持ちの
家の子で、成績優秀かつ心優しい人物なので、
ジョバンニのあこがれの存在、という位置付けに
なっている。
しかも突然、姿を消した後、どうなったかは明確には
描かれていない。


最終形の「銀河鉄道の夜」とブルカニロ博士の登場する
バージョン(初期形と呼んでいる)を同時に掲載して
いるのは、ブルカニロ博士を通して宮沢賢治の思想が
語られているからである。

印象的な事は、ブルカニロ博士のこの言葉
「実験でほんとうの考えとうその考えとを分けてしまえば、
 その実験の方法さえ決まれば、もう信仰も化学も同じ
 ようになる」

このように言う一方で、
「紀元前2200年頃に考えられていた地理と歴史」
についての記述がある本と
「紀元前1000年頃に考えられていた地理と歴史」
についての記述のある本を見せて、その内容の違いを
指摘している。
しかも、それぞれ「証拠」に基づいた説なのである。

「科学的」であっても、いとも簡単に間違った結論を
出してしまう。
(なので、「科学的」だから「絶対に」などという人は
 信用しない方がいいだろう)

ところでブルカニロ博士であるが、最終形では、ものの
見事に登場シーンがすべてカットされている。
あまりペラペラと喋り過ぎて、ウルサイと思われたの
だろう。
やはりホドホドに喋る程度がいいのだろう。

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